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発行人の日記

ABCC

2018年08月

きょうから仕事だ~と勇んで出てきたが、急ぎの仕事をひと通り片づけたところでエネルギーがあっけなく尽きた。休みボケの、夏バテの、幾重にも重なった疲労のせいで、思わずソファに倒れ込みました。

早めに店じまいと思ったが、昨日の8月15日にちなんだことを備忘録代わりに書いておこうかと机に戻って、私にとってある意味で戦争体験のようなものを書いてみました。

子どもの頃、一時期、日曜日になると私を迎えに星条旗をはためかせたジープがうちの玄関先までやってきました。私の住まいは長崎市内で、いうまでもなく原爆投下の街です。

市内には投下後の医学データを収集するABCCという施設(あとで知ったのですが、Atomic Bomb Casualty Commission、ABCC=原爆傷害調査委員会)の白い建物が中心街を離れた蛍茶屋に置かれ、それは原爆投下の翌年、トルーマン大統領の命令でつくられた放射線の被害調査機関だったそうです。

すごいものですね。原爆投下の前からこうした準備が進められていたわけで、広島では1950年から、しばらくして長崎でも活動が始まったとWikipediaには書かれていました。そこで不思議なことですが、なぜ私が関係したのかということです。たぶん、私は小児科研究プログラムという活動に組み込まれていたのではないか。Wikipediaにそれらしき記述がある。私は原爆体験のない少年ということで原爆体験の子と比較データをとるために医学サンプルの一人にされていたようです(私の家族は戦後、福岡から長崎に引っ越してきた)。

もはや記憶は断片でしかないが、ABCC は子どもの目にはどでかい建物に見えた。ほんとのところは3階建てくらいの、原爆で焼け残った建物を再生したものだったかもしれない。スマートな軍服を着た米兵や日本の医師やキレイな看護婦のお姉さんが忙しく行き来する建物の中で午前中いっぱいくらい?時間をつぶし、その間は家族の付き添いもなく、家族もその様子を知らなかったようです。

帰りもジープに乗せられ、看護婦さんが家族に挨拶して帰っていきます。いつも抱えきれないほどのお土産を持たされ、当時は珍しいクッキーやチョコレート、名前も知らないハッカのお菓子、それと英語で書かれたディズニーの絵本やキレイな印刷のコミック雑誌でした。ミッキーマウスやダンボ、白雪姫と、わたしのディズニー体験もすべてそこからだった。

妙なことに、その後、同世代の子どもたちに聞いてもこういうのを体験した子どもは一人もいなかった。

2017.8.16

  

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